菅原神社の由緒
- 神社名/通称
- 菅原神社/上野天神宮
- 鎮座地
- 〒518-0861 伊賀市上野東町2929
- 電話番号
- 0595-21-2940
- 祭神
- (主)菅原道真
- 天照大御神、応神天皇、天児屋根命、大山咋命、宇迦能御魂神、建速須佐之男神、速玉之男神、建御名方神、伊邪那岐大神、八王子、稲田比売命、安閑天皇
- 由緒
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当神社は贈太政大臣正一位菅原朝臣道真公[承和12年(845)6月25日生~延喜3年(903)2月25日歿]を主神とし、古く上野村に祀られていた九社神社を相殿としてお祀りしています。古くは天満宮と申し上げ又、天神宮とも称し、通称お天神さんと親しまれている旧上野町43ヶ町8千戸の惣社であります。文学の神様として信仰が篤く、合格祈願を始め文芸の上達を祈る参詣者が後をたたず年間に亘り社頭を賑わせています。
また、伝説による牛馬との関係から牛馬の守護神としての特殊信仰があって農事や畜産関係者の崇敬も深く5社詣りの中心的な社柄でもあります。
古くは上野山平楽寺の伽藍神でありましたが、天正9年(1581)織田信長の兵乱後に今の地にお遷しいたし奉斎せられたと云われています。初代藩主藤堂高虎公が関ヶ原の戦(1600)の後、伊予今治から伊勢安濃津に移封せられ、大阪方に対する要塞の地として伊賀に出城を構えられ、城下町の区画を整備せられて今日の上野の町の基が築かれたものであります。
当神社は藤堂藩の祈願所と定められ18石余の祭祀料が寄進され、境内の拡張社殿の修復鐘楼の建立など手厚い庇護のもとでいよいよ栄え、明治維新に至って郷社に列せられ、次で県社に昇格し神饌幣帛料の供進社に指定されました。
秋祭りは10月19日~26日に及び、25日は例大祭が執り行われます。
中でも上野文化美術保存会による、鬼・だんじり供奉行列が盛大であり、19日の早朝に2基の神輿は本社から東旅所(市内上野車坂町)へ渡御します。25日直近の日曜日には神幸祭が執り行われ、東旅所を神輿が発し、本町通りを神幸して上野幸坂町の西旅所へ渡御、御昼祭を執り行います。午後は二之町通り、三之町通りを巡幸して、午後3時頃に本社へ還ります。日本最大と云われる三十余貫(120kg)の大御幣が神輿に続き、役の行者が大峯入りに凝らしたと云われる大鬼・小鬼の奇妙な仮装行列が続き、次に9ヶ町の楼車が神輿に供奉し巡行する長蛇の列は、紅葉に映える城下町伊賀上野の粧いこらした一大絵巻であり、約400年の伝統が偲ばれます。当日の参詣者は伊賀一円はもとより、県内を始め、滋賀県、京都府、奈良県などに隣接する方面からの参詣者も多く十数万人を数え、境内を中心に市内各所に露店が軒並べ、市中は歩行者天国であります。
平成14年、「上野天神祭のダンジリ行事」として国指定重要無形民俗文化財として指定を受け、平成28年12月1日にはユネスコ無形文化遺産に登録されています
俳聖松尾芭蕉[寛永21年(1644)生~元禄7年(1694)歿]と当神社との関係については、芭蕉がその処女作であります「貝おほひ」の自序の末尾に
神楽の発句を巻軸にをきぬるハ、歌にやハらぐ神心といへば、小歌にも予がこころざすところの誠をてらし見給ふらん事をあふぎて、当所あまミつおゝん神の御やしろの手向ぐさとなしぬ
寛文拾二年正月廿五日伊賀上野松尾氏宗房(※引用註:芭蕉の元服後の名)釣月軒にしてミづから序す
とある様に、
あまミつおおん神の御やしろ
は、天満天神の御社天満宮即ち当神社のことであります。芭蕉は俳諧をもって身を立てんと志ざされ、江戸へ下行されるに当り、先ずその処女作「貝おほひ」を自分の生まれ故郷の氏神さま天神さんに献納されたのであります。当神社が文学の神として広く世の人々の崇敬を集めていることは、芭蕉の立志の祈願社であることもその要因のひとつかと思われます。